第30話  加茂の浦 U          平成26年04月30日  

 この加茂の浦は、陶山槁木「加茂より由良に至る・・・・」と書いた釣り場紹介の「釣岩図解」、釣りの指南書「垂釣筌」の出発点に当たる。当時の釣では鶴岡から最短の釣り場である加茂の湊が中心であった。加茂の湊から南を上磯加茂から北を下磯と云った。その中で上磯一帯が当時の武士たちの釣りの主戦場となっていたのである。当時街道のひとつ羽州浜街道が現在の由良から急峻な由良坂を登り下りし、山一つ越えた荒倉山の麓、西目、菱津を通り大山に出ていた。では当時由良〜加茂、加茂〜湯野浜間はどうなっていたのだろうか。当時の道を探す為に色々な文献を探して見たが、中々見つからない。唯以前何だかの絵図に、細道が画いてあるのを見た事がある。そこでその道が人の通れる程度の道なのか、荷を積んだ馬が通れる道なのかが分からない。体力増強と云う藩の奨励策の為に特に釣りを選んだ釣り人達にとっては、より難儀な道の方が本来の目的達成の為に良かったのではないだろうかと考えたりしている。
 その後一年も過ぎた頃、「湯野浜の歴史」と云う本に出会った。この両者は現在それぞれ由良〜加茂間は現在県道50号藤島・由良、加茂〜湯野浜間は国道112号線になっている。湯野浜〜加茂間の道路改修が行われたのは、明治22年になってからで、江戸時代は人一人がやっと歩ける程度の上り下りの多い坂道となっていたと記されている。一度海が時化ると人が歩けないような道路で、主に地元の人が優先の道であったと云う。加茂〜由良間も同じような物で、この道も当然地元の漁民専用道路で、人がやっと歩ける上り下りの多い坂道であった。よって磯傍にあった村々からは、海が時化て海岸道路が通れない時に使う更に急峻な山越えだが、大山に抜ける為の間道があった。これらの道の殆どは現在廃道になっている。海岸道路が改修された今日でも、加茂由良間では、冬季の大時化時には道路が閉鎖され事もあり、時には崖崩れもある危険な道路ともなっているのである。そんな道を釣りを趣味とする武士たちは、目的の岩を目がけて鶴岡城下よりテクテクと歩いて磯に通って来たのであった。
 遊びに鳥刺や釣の遠出により、藩の奨励もあり難儀な道を上り下りして足腰を鍛えた武士達は知らず知らずのうちに体力を増強する事になっていた。それが戊辰戦争の時の神出鬼没のゲリラ戦に大いに効果が出ていたと思われる。後に鹿児島藩出身の県知事三島通庸に重用された氏家直綱は軍事周旋方として越後新発田に転戦し、そんな中会津に使いした。会津に着いたものの、時すでに遅く破れたと知るや仙台に出て隠れ住み函館に向う幕臣榎本武揚と合流しよう図ったがね物の果たせず、その後無事帰藩した。戊辰戦争の真っただ中、敵占領地を隠れながら、捕まらず走破したした機動力は大したものであったとしか云い様がない。流石釣を愛した庄内武士の誇りと云いたいものだ。
 現在加茂と云うと鶴岡市の小さな一漁村であって、最近世界一のクラゲ水族館として勇名になったことで知られている。しかし、鎌倉時代にはかほの浦と呼ばれ嵐を避けるのに好都合の港として知られていた。江戸時代には、港であったと同時に酒井藩の武士たちの釣の中心的な基地であった事、即ち体力増強の一大基地であった事として注目される。